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高宮 暉峰先生(1)

更新日:2020年4月18日


 

高宮暉峰(たかみや きほう)先生

本名:高宮 華子 書道のはな*みち主宰

読売書法会 会友

日本書道教育連盟 師範

1975年生まれ。6歳より書道を始める。

24歳で読売書法展初入選を果たしその後、入選・入賞は多数。 「キレイな字が書けると人生はもっと美しくなる」をモットーに、都内数ヶ所に書道サロンをオープン。

六本木ヒルズ内アーテリジェントスクールや、 DHC・コープとうきょう・丸の内朝大学講師等の外部レッスン、

TV・雑誌等メディアで、幅広く活動中。短時間でキレイな字を引き出すためのスパルタ指導を得意としている。 https://hana-michi.com/

 


華子先生との出会い


遠藤郁子(以下郁子):本日はよろしくお願いいたします。華子先生に初めてお目にかかったのは2014年の夏。書道家のための開業コースがあると知り、お尋ねしたのがきっかけです。でも実は、2003年から先生のことは存じ上げておりました。


高宮華子(以下華子):もうそれがびっくりしたんです!


郁子:2003年は六本木ヒルズでアーテリジェントスクールが開講したばかりですよね。書道のはなみちの講座があることをアーテリジェントスクールの新聞で拝見していたんです。

その頃、私は書道業界にいたので視野が狭くなりそうで怖かったんです。そこで他のことも吸収したくて、書道以外の勉強、自己啓発のセミナー、本を読む、とにかく色々なことを学びました。もっと何かできるものはないかな、と思い色々ネット上を探し、その時はなみちのホームページにたどりつきました。この先生はどんな方なのかなと思って。時折ホームページを拝見していて、いつかは会ってみたいなっていうところから今に、今日に至ってるので、とっても嬉しいです、本当に!

華子:すごい。ありがとうございます!

郁子:書道教室をお家だけじゃなく、六本木ヒルズみたいな場所で講座ができたらいいなとか。私の中では想像の域だったのに、しっかりと形にされてる方がいらっしゃるというのがとっても驚きでした。


書道を始めたきっかけ 師匠との出会い

郁子:まず書道を始めたきっかけを教えてください。

華子:小学校1年生の時に、はい、行ってらっしゃいって!という感じで今の師匠の教室に通いはじめました。たまたま叔父が通っていたのです。叔父はその時24才ぐらいだったかな。すごく腕のいいやる気のある江戸っ子先生だから、ということで、それがきっかけです。


郁子:妹さん、はなみちの道子さんもご一緒に?


華子:道子もそうです。はな、みち、の間に弟がいるんですけど、みんな1年生になったら、師匠のところに行く、というのが当たり前のような感じになっていました。月8回お稽古ありましたから、結構大変だったと思います。1週間で2回行って週1回新しいお手本、またお稽古という感じで月4回のお手本ですよ。弟子が200人いて先生はいつお手本書いてたんだろうなと思っていました。お稽古がない日もみんなにパッと渡せるように手本書きをして、とにかく怖い師匠でした。


郁子:師匠との出会いがなかったらどうなっていたと思います。

華子:どうなんでしょう、多分何も続けてなかった気がする。長続きしていることは、中2の時に行ったオーストラリアのホストファミリーとの関係で、25年以上続いています。


郁子:人との関係ですね。

華子:長く続いてるんですけど、それは多分、師匠が起点で出発点。人とのご縁とか繋がりとか、していただいたことに感謝して恩返しをする、ということは多分言葉で直接言われなくても師匠から波動で出てたっていうか。だから結果として振り返ったら、割と長く続いてるものがたくさんあったんです。「継続は力なり」が師匠の目からビームで全部来てましたね。


郁子:「継続は力なり」私も大好きな言葉です。

華子:師匠と出会っていなかったらここまで続けていたかは分からないです。結構簡単に辞めてたかもしれないですね、色々なことを。

郁子:師匠との出会いは大事ですよね。


華子:ほんとに!


郁子:私も師匠がずっと大正生まれだと思ってたんですけど、先日、実は明治生まれだったということが分かりまして。


華子:明治の師匠、すごい!時空をだいぶ超えてますよね。


郁子:確かに。本当にやっぱり厳しいですよね、あの頃の女性は本当に。


華子:厳しい。本当にもう凛としてね。


郁子:私は一緒に住んでいた書道好きの祖母に、私もお習字やりたいって!と何も考えずちょこちょことついて行ったら、「基本的に子供は嫌いだと。普通はとらないんだけど、あなた孫だから特別に」というのでかなりドキドキした覚えがあります。


華子:ちょっとウチの師匠と同じ匂いを感じますよね。


郁子:本当に。でも辞めなかったのは、やっぱり書道が好きだっていうところが根底にはあるんですけど、好きだからやるやるーという好き、とはちょっと違うっていうか。

華子:ただ好きで浮かれてる感じとは次元が全く違いますよね。「道」に入る時はやはりお辞儀してよろしくお願いしますっていう感じで。これ、簡単に辞められないぞ、みたいなオーラはすごい感じますね。


郁子:厳しい師匠ですが、教える立場になってから色々と分かってくることもありますね。師匠との出会いを振り返り感じますが、人とのご縁は大切ですよね。今日のこの華子先生との出会いもそうですね!華子先生が「書道はマイナー」と言われて起業するにいたったストーリーが大好きで、ぜひ改めて教えてください。


書道はマイナー?!

華子:嬉しいです。あれは母がいけないんですけどね。

カルチャースクールのチラシ見た母が「何で華道があって、茶道があるのに、書道がないの?はおかしいから聞いてみて。」と電話の問い合わせが嫌いな母が「いいからちょっと電話してみて」って私に電話をかけさせたのです。

私としては純粋な問い合わせ、しかも母に言われて半分渋々です。カルチャースクールに電話したら、担当者に代わりますと偉い方に繋がれちゃって、「どうして書道がないんですか?」とたずねると「いやーマイナーだから集客できないんですよね」ってその人も言っちゃうものだから、マイナーって?!と私のスイッチがそこで勝手に入りました。書道がマイナーという概念がなかったんです、ちょっと渋いとか、ちょっと地味だとかはありましたけど。

郁子:まあ、年齢が上の方が多いという感じは当時はあったかもしれませんね。。


華子:文化をマイナーと言われちゃうなんて、と思った時には「いやいや、そちらは集客できないのかもしれないですけど、うちのお教室は・・・」と熱く語ってしまってました。

-うちのお教室は・・・師匠の教室はパンパンです。自宅で12畳の寝室を開放して、自分達の寝室は狭い2階に引っ越して、家族4人で寝るくらい。小上がりの6畳ぐらいの和室が待合室で、みんなそこで4列ぐらい並んでます。空いたら次の方どうぞってアシスタントの先生に言われます。師匠も最初は、段ボールの板をビールラックに渡して姪っ子に教えて、姪っ子が友達を連れてきて、その姪っ子がまた友達もいい?って言って今度4人になって、さすがにビールラックでは無理だね、と始まったのです。外には表札しか出ていないのでお教室やってるっていうのは通りすがりの人も全然分からないんですけど、とっても有名です。その師匠のところでお稽古受けていて、200人ぐらいいるんです!- と熱く語ったら、「お宅の教室すごいんですね、とりあえず資料を送ってください」と言われたのです。「お宅の」ではなく「師匠の」教室なのですが勘違いをされたまま、静かに電話を切りました。困ったな。と。師匠はもう一切弟子はとらないって言ってたのに。。先生としてお繋ぎすることもできない。実家が印刷屋でしたので父に相談したら「お前がワープロでちゃんと原稿作ってやるなら紙代ぐらいはカンパしてやる」と言われて、とりあえず資料を作ることになりました。とりあえず一部で、と言ったら「一部も十部も一緒だ!」と結局100枚をとりあえず作って送りました。

郁子:その時はお勤めはしてらしたんですか?


華子:働いてました。結婚もしてましたし、実家の印刷屋も父から手伝いに来てって言われていました。ちょうどOSがWindowsになっていた時代です。このまま実家にいたらずっと自宅の端末しかできないと考えて、派遣会社に行きました。派遣に行くとWindowsのトレーニング受けさせてくれますよね。そして不動産会社で週4日ぐらい派遣で働いて、残った日は実家で働いて、あとお教室でお稽古。その頃にはまだ子供は産まれていなかったですね。自分でお教室をする気がなかったんです、全くね。だから書道教室やるぞ!みたいな志から始まったわけではないんです。(つづく) (撮影協力 Misako Bando)



 

次回は4/19更新の予定です。

華子先生の2時起きの時間術、出版についてもお話伺いました。お楽しみに!


 

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